生 物 水 文 気 候 部 門  北海道水文気候研究所
     
       
<川鍋礼子・高橋英紀、2003:北海道北部稚咲内砂丘帯周辺の土地利用変化と湖沼群の消長、北海道の農業気象 第 55 号、29-41>より抜粋
                                          要 約
 北海道北部の日本海岸に発達する海岸砂丘帯は広く天然林で覆われ,砂丘間低地には降水涵養型 の湿地湖沼群が発達し,景観的にも優れた砂丘‐森林‐湖沼複合体を形成している。この湖沼群面 積の変遷と周辺土地利用変化の関連性を明らかにするために,湖沼水位および近傍地下水位を測定 すると共に,1947年から1995年にかけて撮影された 5時期の航空写真を用いて湖沼面積の変化と 周辺土地利用変化を判読した。湖沼群を砂丘帯の中央を南北に分断する道々稚咲内豊富停車場線を 基準として北エリア・道々エリア・南エリアの3地区に分けて判読した結果,1964年―1995年の 31年間で北エリアでは 44 個中5個,道々エリアでは 20個中13個,南エリアでは 25個中11 個の 湖沼が消滅していた。この 31 年間で北部では主に埋め立て・直接排水により 7ha(9%),道々付 近では道路沿いの排水路によって間接排水され 3ha(85%),南部では主に間接排水,周辺土地利 用変化により 10ha(35%)の湖沼面積が減少してい
た。   
1.はじめに
 日本の海岸線の総延長は約 34,000 kmで,海岸砂丘はそのうち 1,900 kmに発達し,その面積は 約 239,000ha とされている(成瀬,1989)。立石(1988)によれば日本の海岸砂丘は何らかの人為的 影響を受けており,天然の砂丘は存在しないという。しかし,北海道北部の手塩から稚内にかけて の日本海岸に分布する稚咲内海岸砂丘林はその大部分が天然生の森林である。3 列からなる砂丘列 間には数十におよぶ大小さまざまの湖沼や湿地が存在し,砂丘−森林−湖沼が一体となり隣接する サロベツ湿原にも匹敵する優れた景観を醸成している。 稚咲内地区において実施された学術研究はあまり多くはないが,大きく海岸林・地形・水文の 3 分野に分けられる。青柳(1976)は天北地方の造林樹種について,長谷川ら(1975)は稚咲内海岸林の 構造と更新について,新村ら(1982)はカシワ・ミズナラの風衝樹形について,斉藤・東(1971)は海 岸林について,Sato(1994)は砂丘林の縞枯れについて研究した。坂口(1974)は砂丘の成立について, 中尾(1965a,b)はアチャルベシベ川地帯の被圧地下水調査と,ジュンサイ沼の水収支を研究している

 本研究は日本の海岸砂丘としては人為の影響が比較的少なく国立公園の景観要素として貴重な稚 咲内海岸砂丘−森林−湖沼複合体の湖沼群に着目し,その水文特性と面積の長期変動を明らかにす るとともに周辺の土地利用変化との関連性について考究することを目的とする。
   


図-1 研究地域の位置と地形の概略


図‐2 稚咲内砂丘帯における湖沼・森の分布と北・道々・南各エリアの区分
   と地下水観測線
2.研究地域の特徴
2-1. 稚咲内海岸砂丘帯の地形と植生
 稚咲内海岸砂丘帯は日本海沿岸に位置し、東には豊徳台地を挟んでサロベツ湿原が広がっている。砂丘帯は大きく3砂丘帯に区分され(坂口、1974)海岸に沿って北北西から南南東に連なり、延長16.5 kmと北海道で最も長大である。一番内陸の第T砂丘帯は豊徳丘陵の北にあり標高約20mで幅が最も広く、湾曲部を海側に向けた馬蹄形砂丘の連続であることが特徴で、はじめ横列砂丘として発達したものが風の影響によって縦列砂丘に移行したものと考えられている。
 第U砂丘帯は豊徳丘陵の西側に海岸に沿って展開しているが、その東側半分(UA)は第1砂丘帯と同様に風の影響を受けた馬蹄形をなし、西側半分(UB)は海岸に平行な列状配列をしめす。現在残存する湖沼・湿地の大部分はこの第2砂丘帯に展開している。第V砂丘帯は最も海岸よりにある浜堤砂丘列で第U砂丘帯との間は比較的広く低湿地帯を形成している。
第T砂丘帯北部のオネトマナイ川以北をのぞく第T、第UA砂丘帯の大部分はトドマツで覆われており、現在はほぼ固定された状態にある。この海岸砂丘林は利尻礼文サロベツ国立公園の特別保護区に指定され、史跡名勝天然記念物でもある。延長16,500m、林帯幅600m〜1,600mで総面積1,650haで豊富町の海岸線全域に展開している。混交樹種はエゾマツ、アカエゾマツ、イタヤカエデ、ハリギリ、エゾヤマザクラなどである。第UB砂丘帯はモンゴリナラが広く覆い、トドマツはほとんど見られない。第V砂丘帯にはハマナス、スゲ、ススキなどが生育しているが樹木はほとんど見られない。
2-2.  稚咲内地域近年史
 1870年(明治3年)に稚内−手塩間の日本海ルートの中継地点としてワッカサクナイ官設宿泊所が設置され稚咲内の名称が豊富町史に初めて現れた。1903年(明治36年)には郵便路線が開かれ、2軒の宿屋ができた。1912年(明治45年)には日本海ルートが廃道となり宿泊所も閉鎖された。1926年(大正15年)には国鉄宗谷線が全線開通し経済活動は完全に海岸から離れ内陸中心となった。その後、1943年(昭和18年)には鰊番屋と製塩所が建てられたが活動は当然季節的なものであった。また同年に稚咲内砂丘林は防風保安林に指定されようやく保護の網がかかり、保全の方向に歩み始めた。ここまでは開拓前史で、砂丘林については鰊漁にともなう薪炭利用あるいは森林火災など人為の影響は少なからずあった可能性がある。しかし、周辺の土地改変はほとんど行われていなかったことから、砂丘間低地の湖沼群の水文環境に対する人為の影響は極めて少なかったと言える。
 その後、1948年(昭和23年)に戦後開拓事業により樺太からの引揚者が中心となって入植が始まったが、はじめは半農半漁の経営形態が続いた。1949年(昭和24年)には海側広葉樹林帯を町で買い上げ、防風林として保存した。1950年(昭和25年)、内陸の混交林帯(国有林)が道立自然公園に指定された。
 1953年(昭和28年)に豊富町は農村電化事業に着手し、1955年(昭和30年)ころから国の貸し付け牛を導入することにより、主畜農業への転換がはかられるとともに、1956年(昭和31年)から1960年(昭和35年)まで農地の客土事業が進められた。この頃、農家戸数50戸中25戸が酪農家であった。1960年、国有林が鳥獣保護区に指定された。
 1960年代に入ると農業基本法の離農対策事業により離農する農家が増え、草地の一戸あたりの規模が拡大した。またこの頃から稚咲内地区の農家は小家畜・漁業をやめて酪農を専業とするようになった。1961年(昭和36年)、サロベツ原野総合開発事業が始まり、放水路が開削され客土事業も行われた。1965年(昭和40年)には利尻礼文サロベツ国定公園が指定された。
 1971年(昭和46年)、稚咲内砂丘林が天然記念物に指定され、1974年(昭和49年)には利尻礼文サロベツ国定公園が国立公園に昇格指定され、町有林や国有林は特別保護区となった。一方、1979年(昭和54年)には稚咲内北方に200haの国営草地が造成され、1980年(昭和55年)から1983年(昭和58年)には国営草地に道営農地開発事業により合計8,500mの明渠が開削された。